楽曲制作・DJの依頼
For commission
・myuuno24@gmail.com
・Twitter DM(@kamywu)
制作楽曲
Original Tracks
DJイベント主催
Hosting events #S_D_C_s
Sustainable Drum'n'Bass & Cores, 略してSDCsと題した, ドラムンベースと○○Coreのためのイベントを企画してます。
イベント出演
DJ act
フランス在学中、ドイツ人の友人でもあるDJ BrainShitさんから誘ってもらい、オランダで定期開催されている「Pon de Beats」というアニクライベントにDJ出演しました。
多くのコンピレーション作品でお世話になっているNTGさんに誘われ、NotThatRecordsの1周年記念配信イベントにて、DJ出演しました。
随筆作品
Essays
「専門化すればするほど、一部の人間からの評価が気になるし、専門化すればするほど、承認欲求の精度が鋭敏になる。人々の欲求する自己実現のために必要な目標のスコープは細くなってゆき、ゆくゆくはその評価にとらわれはじめる。〇〇大学の受験で合格したいという欲求も、ツイッターのいいねをたくさんもらいたいという欲求も、承認欲求のスコープが細くなっているという点において同じようなものである。そして、このスコープの細さは、スコープの外部にいる存在を見失ってしまうことになる。ゆくゆくはこのスコープで、無意識に外部の人間たちを暴力的に迫害する可能性だって生まれてくる。こうして、欲求のスコープが鋭敏化することで、専門化を極める道をすすむと同時に、暴力を手にする機会が求道者の前に立ち現れてしまう。
僕たちは多くの環境において、このような承認欲求の精度を痛感することがある。けれど、このような承認欲求のスコープが細まっていくことにも、それなりの理由があるように思えるのだ。というのも、
我々は誰にでも認められたいと思っているわけでは決してない。世のすべての人間に対して認められたい、といわしめるような漠然とした感情も、少し考えてみれば誰に認められたいのかということが見えてくる。本来の承認欲求は、限定的な存在に対応した欲求に過ぎない。それゆえ、我々はなぜそのようにして承認を行うのか、ということを今一度考え直さなければならない。」
noteより
「情報には根源的な暴力性があり、情報を発信するものも、受信するものも、
暴力⇄癒しの二分法に陥りやすくなってしまっている。 受信者は、情報を介して傷つくか、癒されるかという二分法にあるし、発信者は情報を介して傷つけるか、癒すかという二分法しか残されていない。情報発信者は常にマウントを取って誰かを傷つけるか、ネコ動画でもあげて誰かに癒しを与えることしかできなくなってしまっている(世界は暴力とその治療の二分法では語ることができない部分がたくさんあるにもかかわらず!)。 僕たちはこの二分法を破壊するために、情報に新たな役割を与えなければならない。それは、もっと「信頼」のできる、「やさしい」情報としてあるべきだ。情報というのは、武器でもあり、感情を揺さぶるものでもあるが、それと同時に親しみやすいものでもあるはずだ。僕たちは、もっと情報に対象としての「親しみ」を与えなければならない。それこそ、「信頼性」を少しでも与えなければ、感情が揺さぶられ、あるいは所有物として、武器として、無意識に取り込まれてしまう。情報は、もっと「やさしく」あるべきだ。」
noteより
「世界は繋がりすぎることによって、暴力に対して「意識高い系」になってしまっている。差別反対・暴力反対のようなマインドを、僕はある種の「意識高い系」だと思っている。意識が高ければ責任感も高くなる。アフリカの貧しい人々に対して真剣に考えを巡らせたり、女性差別の問題に対して真剣に考えを巡らせている人は確実にいて、そのような人々は「意識高い系」と分類されているはずだ。彼らも一つのコミュニティの中でそういった差別反対のコードをもっていたが、これが現代は世界的に問題視されるトピックとなった。いわば「意識高い系」のマインドによって「内輪ノリ」が破壊され、どんな人も「意識を高くもて」と指南される方へ向かっているのが我々の社会である。コンプライアンスから私的な発言まで、どれに対しても責任を持たねばならない。「私的なノリ」みたいなものも少しずつなくなっていくだろう。現代はどんどんと「意識高い系」になっている。
僕にとって、「内輪ノリ」も「意識高い系」も、ある種の暴力への対処法であったと思われる。「内輪ノリ」は、いわば責任感の少ない場所へ行きたい人々が作った暴力フリーな場であり、「意識高い系」は、本当の意味で暴力を撲滅しようと動いた結果の「癒し」行為であるように思える。 僕はこのどちらもが、
ひとりの人間として限界を迎えている対処法のように思える。僕たちはもっと暴力に対して受容の姿勢を見せたほうがいいと思う。そしてもっと「やさしさ」をもって世界と触れ合う方がいいと思う。」
noteより
「議論を行うための根本的な原動力には、共有された文脈というものが必要である。これを、限りなく精緻に、まじめに取り組んでいるものが論文であったり学術書にあたるものである。そして、その文脈を正しく追従するためには、「遡行」が必要になる。脚注を逐一チェックしないといけないし、途中から突然文章を読みはじめて論文の内容を理解するのは素人にとって難しい。小説はプロローグから読み進めないと、話の内容がわからないようになっているのと同じように、論文の正しい読み方は、脚注の意図まで汲み取り、正しい議論の遷移をたどることにある。しかし、そのような読み方自体が、「意識改革」を求めるための共通経験を増やす手段としてしか機能していない。それ以上のことを本や文章で行うのはなんとも難しい。そして、文脈は長くなればなるほど「遡行」するのが難しくなるし、誤読が多発するようになる。
だからこそ、大事なのは「もっと経験を巻き込むための言葉を越えた実践」と「議論そのものの遡行を簡単にする」ことだ。アニメや漫画にだって、哲学書で表現のできないフィロソフィーが存在する。問題は、
そのようなフィロソフィーを哲学書や学術書のフォーマットで表現できないことにある。」