お仕事の依頼
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楽曲依頼・インスト依頼・DJ依頼
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制作楽曲
Original Tracks
ブートレグ作品
Bootlegs
ブートレグをSoundCloudにて公開しています。
ぜひ一度聞いてみてください。
イベント出演
DJ act
フランス在学中、ドイツ人の友人でもあるDJ BrainShitさんから誘ってもらい、オランダで定期開催されている「Pon de Beats」というアニクライベントにDJ出演しました。
アニソンリミックスでできる僕の全てのプレイスタイルを詰め込みました。
多くのコンピレーション作品でお世話になっているNTGさんに誘われ、NotThatRecordsの1周年記念配信イベントにて、DJ出演しました。
普段から聞いているDrumnBass/Footworkの文脈をうまく繋ぎ合わせたセットになっています。
DJイベント主催
Hosting events #S_D_C_s
Sustainable Drum'n'Bass & Cores, 略してSDCsと題した, ドラムンベースと○○Coreのためのイベントを企画してます。
KAMINとは何者か
DJ/Producer。
オリジナル楽曲/リミックス制作を表現の場にしています。
特に、ドラムンベースでCOREな音楽を武器にしています。
派生して、DJ出演/イベント主催/ラジオ番組の制作も行なっています。
哲学の勉強がライフワークで、趣味で執筆も行なっています。
どうぞ、気軽に話しかけてください(•̀ᴗ•́)و ̑̑
随筆作品
Essays
「専門化すればするほど、一部の人間からの評価が気になるし、専門化すればするほど、承認欲求の精度が鋭敏になる。人々の欲求する自己実現のために必要な目標のスコープは細くなってゆき、ゆくゆくはその評価にとらわれはじめる。〇〇大学の受験で合格したいという欲求も、ツイッターのいいねをたくさんもらいたいという欲求も、承認欲求のスコープが細くなっているという点において同じようなものである。そして、このスコープの細さは、スコープの外部にいる存在を見失ってしまうことになる。ゆくゆくはこのスコープで、無意識に外部の人間たちを暴力的に迫害する可能性だって生まれてくる。こうして、欲求のスコープが鋭敏化することで、専門化を極める道をすすむと同時に、暴力を手にする機会が求道者の前に立ち現れてしまう。
僕たちは多くの環境において、このような承認欲求の精度を痛感することがある。けれど、このような承認欲求のスコープが細まっていくことにも、それなりの理由があるように思えるのだ。というのも、
『やさしさとはなにか』より
「情報には根源的な暴力性があり、情報を発信するものも、受信するものも、
『嫉妬を運ぶ仲介業者』より
「世界は繋がりすぎることによって、暴力に対して「意識高い系」になってしまっている。差別反対・暴力反対のようなマインドを、僕はある種の「意識高い系」だと思っている。意識が高ければ責任感も高くなる。アフリカの貧しい人々に対して真剣に考えを巡らせたり、女性差別の問題に対して真剣に考えを巡らせている人は確実にいて、そのような人々は「意識高い系」と分類されているはずだ。彼らも一つのコミュニティの中でそういった差別反対のコードをもっていたが、これが現代は世界的に問題視されるトピックとなった。いわば「意識高い系」のマインドによって「内輪ノリ」が破壊され、どんな人も「意識を高くもて」と指南される方へ向かっているのが我々の社会である。コンプライアンスから私的な発言まで、どれに対しても責任を持たねばならない。「私的なノリ」みたいなものも少しずつなくなっていくだろう。現代はどんどんと「意識高い系」になっている。
僕にとって、「内輪ノリ」も「意識高い系」も、ある種の暴力への対処法であったと思われる。「内輪ノリ」は、いわば責任感の少ない場所へ行きたい人々が作った暴力フリーな場であり、「意識高い系」は、本当の意味で暴力を撲滅しようと動いた結果の「癒し」行為であるように思える。 僕はこのどちらもが、
『内輪ノリと意識高い系について』より
「議論を行うための根本的な原動力には、共有された文脈というものが必要である。これを、限りなく精緻に、まじめに取り組んでいるものが論文であったり学術書にあたるものである。そして、その文脈を正しく追従するためには、「遡行」が必要になる。脚注を逐一チェックしないといけないし、途中から突然文章を読みはじめて論文の内容を理解するのは素人にとって難しい。小説はプロローグから読み進めないと、話の内容がわからないようになっているのと同じように、論文の正しい読み方は、脚注の意図まで汲み取り、正しい議論の遷移をたどることにある。しかし、そのような読み方自体が、「意識改革」を求めるための共通経験を増やす手段としてしか機能していない。それ以上のことを本や文章で行うのはなんとも難しい。そして、文脈は長くなればなるほど「遡行」するのが難しくなるし、誤読が多発するようになる。
だからこそ、大事なのは「もっと経験を巻き込むための言葉を越えた実践」と「議論そのものの遡行を簡単にする」ことだ。アニメや漫画にだって、哲学書で表現のできないフィロソフィーが存在する。問題は、
『哲学的生活習慣の変更・実践』より